玉門関

玉門関
敦煌の西100kmの所に、敦煌からタクラマカン砂漠を抜けカシュガルへ向かう「西域南道」への関所であった「玉門関」があります。
それは一辺が25m高さが10mほどの真四角な造りで、西側と北側に入り口があります。
一見石造りに見えますが、実は土を突き固めて作られた物です。
ここはその名が示すとおり「関所」であると同時に、西域からの侵略を防ぐ重要な軍事拠点でもありました。なんでも往時には2万を超える兵士が駐屯していたそうです。
「玉門関」の名前は、新疆ウイグル自治区のホータンで産出された「玉石」がここを通って中国に入ってきたことに由来しています。
玉門関にまつわる話と言えば、ひとつは将軍李広利に関するものです。
紀元前139年に匈奴制圧のため西域遠征に遣わした張騫(ちょうけん)が凱旋したとき、西域には血の汗を流しながら駆けるいう名馬「汗血馬」がいるという話を聞かされた武帝は、これにたいへん魅了されました。「ぜひとも我が手に・・・」と思った武帝は紀元前104年、李広利を「貳師(じし)将軍」に任命し、大宛を征伐し「汗血馬」を連れてくるよう命じました。
将軍李広利は最初の遠征では敗北し退却しましたが、これに怒った武帝は漢への帰国を認めず、ここ「玉門関」で追い返されました。
二度目の遠征で見事勝利した李広利は、3千頭余りの「汗血馬」を引き連れ武帝の元へ凱旋しました。そのときもまたここ「玉門関」を経由してのことでした。
もう一つ忘れてならないのは、西遊記で知られる三蔵法師(玄奘(げんじょう)三蔵)が、西暦629年、国禁を犯し遠くインドの地へ教学を学びに旅立ったときにも、ここ「玉門関」を通ったと言われています。
ただ当時の国禁に反する旅でしたから出国が認められるはずもなく、実際は玉門関の官吏の目を避けるようにして周囲を迂回し旅立ったとも言われています。

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